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über die Dalai Lamas

佛教未传入西藏之前,西藏当地已有民间信仰的“苯教”流传,作法事供养鬼神、祈求降福之类,是西藏本有的民间信仰。

到了唐代藏王松赞干布引进所谓的“佛教”,也就是天竺密教时期的坦特罗佛教──左道密宗──成为西藏正式的国教;为了适应民情,把原有的“苯教”民间鬼神信仰融入藏传“佛教”中,从此变质的藏传“佛教”溢发邪谬而不单只有左道密宗的双身法,也就是男女双修。由后来的阿底峡传入西藏的“佛教”,虽未公然弘传双身法,但也一样有暗中弘传。

但是前弘期的莲花生已正式把印度教性力派的“双身修法”带进西藏,融入密教中公然弘传,因此所谓的“藏传佛教”已完全脱离佛教的法义,甚至最基本的佛教表相也都背离了,所以“藏传佛教”正确的名称应该是“喇嘛教”也就是──左道密宗融合了西藏民间信仰──已经不算是佛教了。

   
                  オウム真理教とチベットの関係

オウム真理教とチベットの関係

 

ダ ライ・ラマ14世は、あの地下鉄サリン事件を起こしたカルトテロリスト集団であるオウム真理教の教祖・麻原彰晃の師であった。オウム真理教の教義や教則な どもその多くがダライを由来としているものであり、それだけダライは麻原およびオウム真理教に多大な影響を与えていた人物なのである。

ダライ・ラマ14世の存在があったからこそカルトテロリスト集団のオウム真理教がこの世に誕生し、地下鉄サリン事件その他の凶悪事件もこの世で発生し得た と言っても過言ではない。そのような凶悪なカルト宗教を生み出すことに一役買った悪魔のような坊主が率いる「亡命集団」がもしもチベットの独立国家を建国 などしようものなら、一体どのようなおぞましい政教一致国家が誕生するのか、想像するのも恐ろしい話である。

 

 

 


オウム真理教の麻原彰晃とダライの関係



▽オウム真理教の麻原彰晃とダライの関係

オウム真理教の起こした一連の凶悪事件は世界に衝撃を与えた。1995年3月、日本の地下鉄で起こったサリン事件では12人が死亡し、5千人余りが負傷し た。2004年2月27日、東京地方裁判所は13の罪名で教祖の麻原彰晃に死刑を言い渡した。2006年9月、最高裁の抗告棄却によって死刑が確定した。

地下鉄サリン事件の発生後、平和を愛する世界中の人々が怒りの矛先を麻原彰晃とオウム真理教に向けていた頃、ダライは共同通信を通じて、「オウム真理教は 仏教の教義を広める宗教であり、麻原彰晃は自らの友人である」との意見を発表し、大きな反響を呼んだ。ダライはなぜこのような意見を発表したのか。それ は、麻原彰晃という邪教の指導者が実のところダライの「生徒」だったからだ。ダライのこのような汚れた過去に対し、良心を失ったメディアは見て見ぬふりを し、二人の関係をなかったもののようにしている。

ダライはこれまで12回にわたって日本を訪れている。1984年の訪問では当時29歳の麻原と会ったという情報もある。麻原は1986年、インドを訪れた 後にオウム真理教を正式に設立。翌1987年、麻原は再びインドを訪れ、ダライと会っている。この時、ダライは麻原に対し、「親愛なる友人よ、日本の仏教 はすでに退廃してしまった。このまま行けば、仏教は日本で消えてしまうだろう。あなたは故郷で本当の仏教を伝えなければならない。仏の境地を知るあなたは 最良の人選だ。あなたが日本で布教することを私はとても嬉しい。そうすることは私の仕事を助けることでもある」との内容の発言を行った。この会見時、ダラ イは麻原に祝福を与え、「師弟関係」を結んだといわれる。

ダライは自らの「生徒」の働きにとても満足していた。1995年の事件が発生するまでの8年間、二人は5回にわたって顔を合わせ、手紙のやりとりをしばし ば行っていた。1989年、麻原は10万ドルをダライに寄付し、ダライは証書と推薦状をもってこれに返答した。ダライは東京の関連部門にあてた推薦状の中 で、「麻原彰晃は能力のある宗教的指導者であり、オウム真理教は大乗仏教を広め公共の善を促す宗教だ」とし、「オウム真理教への免税を許可するべきだ」と まで書いている。オウム真理教はこの証明書と推薦状によって、日本政府が正式に承認する宗教団体となった。その後、大量の資金を蓄積してサリンの研究と生 産を行ったのは周知の通りだ。

麻原は日本で合法的な地位を得た後、ダライに感謝状を送り、「私たちの希望はチベットができるだけ早くチベット人の手に帰ることです。私たちはそのために できるだけの援助をしていきます」と述べている。麻原はダライの指示を受け、チベット地域に2回にわたってもぐりこみ、「布教活動」を行っている。麻原は ダライが自らの指導者であることを正式に認めている。オウム真理教の教義や教則なども多くがダライを由来とするものだ。

ドイツの週刊誌「フォーカス」は、「ダライの支援がなければ、麻原彰晃が自らの宗教帝国を作ることは不可能だった。ただの治療師であり詐欺師でしかなかっ た麻原が数年の短期間であっという間に大教団の教祖となるのも、ダライの支援がなければこれほど簡単ではなかったはずだ」と指摘している。ダライが麻原を これほど重用したのは、麻原からの金銭支援をあてにしていたためだけではなく、麻原を通じて日本の仏教を改革したいと考えていたためだ。ダライが麻原と結 託したのは、「チベット独立」を支援する弟子たちを日本に増やしたかったからにほかならない。ダライのこの勝手な計算は邪教の崩壊という結果に終わった。 自己の信徒の生命を損なう邪教が目立つ中で、ダライの高弟である麻原彰晃が作り出したオウム真理教は、教団外の罪のない人々をテロ攻撃する教団として、 人々に大きな衝撃を与えた。(「鳳凰週刊」よりダイジェスト、編集MA)
 

 

ダライ・ラマの称賛を“金で買った” 上祐氏が古巣・オウムに爆弾



2015年01月21日 08時00分

オウム真理教元信者高橋克也被告(56)の第2回の裁判員裁判が19日、東京地裁で開かれ、元幹部の上祐史浩氏(52)が証人出廷した。

オウム裁判に証人として出るのは初。現在は麻原彰晃死刑囚(59)と決別して、新団体「ひかりの輪」代表の立場だ。法廷では古巣への冷静な批判を繰り広げた。

オウム教義は「ヨガ団体にチベット密教とキリスト教の終末思想が入った寄せ集め」と指摘。当時、入信した若者たちは上祐氏を含めて、「ノストラダムスの大予言」やアニメにかなり影響されていたと語る。

「私は第3次世界大戦が起こると思っていた」。裁判後の会見では「『宇宙戦艦ヤマト』も『機動戦士ガンダム』も世界大戦を描いた。ハルマゲドンのキーワードがいくらでもあった」と述べた。

幹部しか知らない仰天事実も明らかに。サリン事件後、麻原死刑囚が「1995年の11月には戦争だ!」と発言したと証言した。「11月」「戦争」という言葉は記憶しているという。サリン以上のテロの可能性があったとは恐ろしい。

また、教団がダライ・ラマ14世に莫大な寄付をしていたことも明らかに。「麻原は100万ドルを目標にして、たぶん1億円を超えた」。80年代後半、ダライ・ラマは麻原と対談して称賛の言葉を贈っている。

「お金の取引で、高名なダライ・ラマが称賛の言葉を贈ると思えず、信じた」と上祐氏。ダライ・ラマは89年にノーベル平和賞を受賞。名僧ブランドでオウムの信用が上がったことは、信者獲得の一因に違いない。

高橋被告とは出家の時期が近いが「付き合いがない。要するに影の薄い男」と振り返る。謝罪の言葉が出ないことに「心の中が整理できてない。(信仰心が) 残ってなければ、宗教的に正当化できない事件だった。個人の関与は別にして、教団の関与は明らか。それでも(謝罪が)ないのは、麻原への信仰が残っている と考えるのが合理的」と指摘した。



ペマ・ギャルポとオウム真理教の関係



日本において「チベット侵略」「チベット大虐殺」などの歴史捏造を流布しているチベット族出身の反中活動家でありダライと麻原を引き合わせた張本人でもあるペマ・ギャルポも当初はオウム真理教との関係を持っていたが、後に関係を切っている。

彼は1999年2月25日に宗教関連団体「大阪国際宗教同志会」の講演「チベット仏教とは何か」において以下のように発言した。
それから、「オウム」の問題......。オウム真理教の問題に関しても、私はもちろん加担しました。なんていうかな、麻原彰晃さんがある程度、偉くなる のにですね、良い意味でも悪い意味でもそれなりに貢献したのは事実です。というのは、彼をインドに最初に紹介したのは私だったんです。しかし、その時は、 私なりの打算がありました。私は今までに二回詐欺に遭ったことがありますけれども、よく考えてみますと、その詐欺師だけが悪いのではなく、自分の中にも ちゃんと計算(打算)があるんですね。ですから、不可能なものを可能であろうと信じたりするんです。

それと同じように、麻原さんの時もやっぱり、日本の仏教とチベットの仏教は兄弟みたいなものだけれども、もし麻原さんがチベット仏教の信仰者になれば、こ れは息子みたいになるから......、と本当に思ったんです。そうしたら、もっともっとこちらが直接、何事もお願いしやすくなると思ったんです。そうい う過去がありました。ただ、何カ月もしないうちにいろんなことが判ってきて、最後には、私は「麻原さんとはお付き合いしないほうがいい」ということを、ダ ライ・ラマ法王庁に申し上げました。

1999年2月25日 ペマ・ギャルポ

なお、「彼をインドに最初に紹介したのは私だったんです」の「インド」とはインドのダラムサラにあるダライ・ラマ14世のチベット亡命政権のことである。

 

Die Dalai Lamas

»Die Dalai Lamas werden von ihren Anhängern als fortgeschrittene Mahayana Bodhisattvas angesehen, mitfühlende Wesen, die sozusagen ihren eigenen Eintritt in das Nirvana zurückgestellt haben, um der leidenden Menschheit zu helfen. Sie sind demnach auf einem guten Wege zur Buddhaschaft, sie entwickeln Perfektion in ihrer Weisheit und ihrem Mitgefühl zum Wohle aller Wesen. Dies rechtertigt, in Form einer Doktrin, die soziopolitische Mitwirkung der Dalai Lamas, als Ausdruck des mitfühlenden Wunsches eines Bodhisattvas, anderen zu helfen.«

?Hier sollten wir zwei Dinge feststellen, die der Dalai Lama nicht ist: Erstens, er ist nicht in einem einfachen Sinne ein ?Gott-König?. Er mag eine Art König sein, aber er ist kein Gott für den Buddhismus. Zweitens, ist der Dalai Lama nicht das ?Oberhaupt des Tibetischen Buddhismus? als Ganzes. Es gibt zahlreiche Traditionen im Buddhismus. Manche haben ein Oberhaupt benannt, andere nicht. Auch innerhalb Tibets gibt es mehrere Traditionen. Das Oberhaupt der Geluk Tradition ist der Abt des Ganden Klosters, als Nachfolger von Tsong kha pa, dem Begründer der Geluk Tradition im vierzehnten/fünfzehnten Jahrhundert.«

Paul Williams, »Dalai Lama«, in
Clarke, P. B., Encyclopedia of New Religious Movements
(New York: Routledge, 2006), S. 136.

Regierungsverantwortung
der Dalai Lamas

?Nur wenige der 14 Dalai Lamas regierten Tibet und wenn, dann meist nur für einige wenige Jahre.?

(Brauen 2005:6)

»In der Realität dürften insgesamt kaum mehr als fünfundvierzig Jahre der uneingeschränkten Regierungsgewalt der Dalai Lamas zusammenkommen. Die Dalai Lamas sechs und neun bis zwölf regierten gar nicht, die letzten vier, weil keiner von ihnen das regierungsfähige Alter erreichte. Der siebte Dalai Lama regierte uneingeschränkt nur drei Jahre und der achte überhaupt nur widerwillig und auch das phasenweise nicht allein. Lediglich der fünfte und der dreizehnte Dalai Lama können eine nennenswerte Regieruagsbeteiligung oder Alleinregierung vorweisen. Zwischen 1750 und 1950 gab es nur achtunddreißig Jahre, in denen kein Regent regierte!«

Jan-Ulrich Sobisch,
Lamakratie - Das Scheitern einer Regierungsform (PDF), S. 182,
Universität Hamburg

Der Fünfte Dalai Lama,
Ngawang Lobsang Gyatso

Der Fünfte Dalai Lama, Ngawang Lobsang Gyatso

?Der fünfte Dalai Lama, der in der tibetischen Geschichte einfach ?Der Gro?e Fünfte? genannt wird, ist bekannt als der Führer, dem es 1642 gelang, Tibet nach einem grausamen Bürgerkrieg zu vereinigen. Die ?ra des fünften Dalai Lama (in etwa von seiner Einsetzung als Herrscher von Tibet bis zum Beginn des 18. Jahrhunderts, als seiner Regierung die Kontrolle über das Land zu entgleiten begann) gilt als pr?gender Zeitabschnitt bei der Herausbildung einer nationalen tibetischen Identit?t - eine Identit?t, die sich im Wesentlichen auf den Dalai Lama, den Potala-Palast der Dalai Lamas und die heiligen Tempel von Lhasa stützt. In dieser Zeit wandelte sich der Dalai Lama von einer Reinkarnation unter vielen, wie sie mit den verschiedenen buddhistischen Schulen assoziiert waren, zum wichtigsten Beschützer seines Landes. So bemerkte 1646 ein Schriftsteller, dass dank der guten Werke des fünften Dalai Lama ganz Tibet jetzt ?unter dem wohlwollenden Schutz eines wei?en Sonnenschirms zentriert? sei; und 1698 konstatierte ein anderer Schriftsteller, die Regierung des Dalai Lama diene dem Wohl Tibets ganz so wie ein Bodhisattva - der heilige Held des Mahayana Buddhismus - dem Wohl der gesamten Menschheit diene.?

Kurtis R. Schaeffer, »Der Fünfte Dalai Lama Ngawang Lobsang Gyatso«, in
DIE DALAI LAMAS: Tibets Reinkarnation des Bodhisattva Avalokite?vara,
ARNOLDSCHE Art Publishers,
Martin Brauen (Hrsg.), 2005, S. 65

Der Fünfte Dalai Lama:
Beurteilungen seiner Herrschaft I

?Gem?? der meisten Quellen war der [5.] Dalai Lama nach den Ma?st?ben seiner Zeit ein recht toleranter und gütiger Herrscher.?

Paul Williams, »Dalai Lama«, in
(Clarke, 2006, S. 136)

?Rückblickend erscheint Lobsang Gyatso, der ?Gro?e Fünfte?, dem Betrachter als überragende, allerdings auch als widersprüchliche Gestalt.?

Karl-Heinz Golzio / Pietro Bandini,
»Die vierzehn Wiedergeburten des Dalai Lama«,
O.W. Barth Verlag, 1997, S. 118

»Einmal an der Macht, zeigte er den anderen Schulen gegenüber beträchtliche Großzügigkeit. […] Ngawang Lobsang Gyatso wird von den Tibetern der ›Große Fünfte‹ genannt, und ohne jeden Zweifel war er ein ungewöhnlich kluger, willensstarker und doch gleichzeitig großmütiger Herrscher.«

Per Kvaerne, »Aufstieg und Untergang einer klösterlichen Tradition«, in:
Berchert, Heinz; Gombrich, Richard (Hrsg.):
»Der Buddhismus. Geschichte und Gegenwart«,
München 2000, S. 320

Der Fünfte Dalai Lama:
Beurteilungen seiner Herrschaft II

?Viele Tibeter gedenken insbesondere des V. Dalai Lama bis heute mit tiefer Ehrfurcht, die nicht allein religi?s, sondern mehr noch patriotisch begründet ist: Durch gro?es diplomatisches Geschick, allerdings auch durch nicht immer skrupul?sen Einsatz machtpolitischer und selbst milit?rischer Mittel gelang es Ngawang Lobzang Gyatso, dem ?Gro?en Fünften?, Tibet nach Jahrhunderten des Niedergangs wieder zu einen und in den Rang einer bedeutenden Regionalmacht zurückzuführen. Als erster Dalai Lama wurde er auch zum weltlichen Herrscher Tibets proklamiert. Unter seiner ?gide errang der Gelugpa-Orden endgültig die Vorherrschaft über die rivalisierenden lamaistischen Schulen, die teilweise durch blutigen Bürgerkrieg und inquisitorische Verfolgung unterworfen oder au?er Landes getrieben wurden.

Jedoch kehrte der Dalai Lama in seiner zweiten Lebenshälfte, nach Festigung seiner Macht und des tibetischen Staates, zu einer Politik der Mäßigung und Toleranz zurück, die seinem Charakter eher entsprach als die drastischen Maßnahmen, durch die er zur Herrschaft gelangte. Denn Ngawang Lobzang Gyatso war nicht nur ein Machtpolitiker und überragender Staatsmann, sondern ebenso ein spiritueller Meister mit ausgeprägter Neigung zu tantrischer Magie und lebhaftem Interesse auch an den Lehren anderer lamaistischer Orden. Zeitlebens empfing er, wie die meisten seiner Vorgänger, gebieterische Gesichte, die er gegen Ende seines Lebens in seinen ›Geheimen Visionen‹ niederlegte.«

(Golzio, Bandini 1997: 95)

Der Dreizehnte Dalai Lama,
Thubten Gyatso

Der Dreizehnte Dalai Lama, Thubten Gyatso

?Ein anderer, besonders wichtiger Dalai Lama war der Dreizehnte (1876-1933). Als starker Herrscher versuchte er, im Allgemeinen ohne Erfolg, Tibet zu modernisieren. ?Der gro?e Dreizehnte? nutzte den Vorteil des schwindenden Einflusses China im 1911 beginnenden Kollaps dessen Monarchie, um faktisch der vollst?ndigen nationalen Unabh?ngigkeit Tibets von China Geltung zu verschaffen. Ein Fakt, den die Tibeter von jeher als Tatsache erachtet haben.?

Paul Williams, »Dalai Lama«, in
(Clarke, 2006, S. 137)

?Manche m?gen sich vielleicht fragen, wie die Herrschaft des Dalai Lama im Vergleich mit europ?ischen oder amerikanischen Regierungschefs einzusch?tzen ist. Doch ein solcher Vergleich w?re nicht gerecht, es sei denn, man geht mehrere hundert Jahre in der europ?ischen Geschichte zurück, als Europa sich in demselben Zustand feudaler Herrschaft befand, wie es in Tibet heutzutage der Fall ist. Ganz sicher w?ren die Tibeter nicht glücklich, wenn sie auf dieselbe Art regiert würden wie die Menschen in England; und man kann wahrscheinlich zu Recht behaupten, dass sie im Gro?en und Ganzen glücklicher sind als die V?lker Europas oder Amerikas unter ihren Regierungen. Mit der Zeit werden gro?e Ver?nderungen kommen; aber wenn sie nicht langsam vonstatten gehen und die Menschen nicht bereit sind, sich anzupassen, dann werden sie gro?e Unzufriedenheit verursachen. Unterdessen l?uft die allgemeine Verwaltung Tibets in geordneteren Bahnen als die Verwaltung Chinas; der tibetische Lebensstandard ist h?her als der chinesische oder indische; und der Status der Frauen ist in Tibet besser als in beiden genannten L?ndern.?

Sir Charles Bell, »Der Große Dreizehnte:
Das unbekannte Leben des XIII. Dalai Lama von Tibet«,
Bastei Lübbe, 2005, S. 546

Der Dreizehnte Dalai Lama:
Beurteilungen seiner Herrschaft

?War der Dalai Lama im Gro?en und Ganzen ein guter Herrscher? Dies k?nnen wir mit Sicherheit bejahen, auf der geistlichen ebenso wie auf der weltlichen Seite. Was erstere betrifft, so hatte er die komplizierte Struktur des tibetischen Buddhismus schon als kleiner Junge mit ungeheurem Eifer studiert und eine au?ergew?hnliche Gelehrsamkeit erreicht. Er verlangte eine strengere Befolgung der m?nchischen Regeln, veranlasste die M?nche, ihren Studien weiter nachzugehen, bek?mpfte die Gier, Faulheit und Korruption unter ihnen und verminderte ihren Einfluss auf die Politik. So weit wie m?glich kümmerte er sich um die zahllosen religi?sen Bauwerke. In summa ist ganz sicher festzuhalten, dass er die Spiritualit?t des tibetischen Buddhismus vergr??ert hat.

Auf der weltlichen Seite stärkte er Recht und Gesetz, trat in engere Verbindung mit dem Volk, führte humanere Grundsätze in Verwaltung und Justiz ein und, wie oben bereits gesagt, verringerte die klösterliche Vorherrschaft in weltlichen Angelegenheiten. In der Hoffnung, damit einer chinesischen Invasion vorbeugen zu können, baute er gegen den Widerstand der Klöster eine Armee auf; vor seiner Herrschaft gab es praktisch keine Armee. In Anbetracht der sehr angespannten tibetischen Staatsfinanzen, des intensiven Widerstands der Klöster und anderer Schwierigkeiten hätte er kaum weiter gehen können, als er es tat.

Im Verlauf seiner Regierung beendete der Dalai Lama die chinesische Vorherrschaft in dem großen Teil Tibets, den er beherrschte, indem er chinesische Soldaten und Beamte daraus verbannte. Dieser Teil Tibets wurde zu einem vollkommen unabhängigen Königreich und blieb dies auch während der letzten 20 Jahre seines Lebens.«

Sir Charles Bell in (Bell 2005: 546-47)

Der Vierzehnte Dalai Lama,
Tenzin Gyatso

Der Vierzehnte Dalai Lama, Tenzin Gyatso

?Der jetzige vierzehnte Dalai Lama (Tenzin Gyatso) wurde 1935 geboren. Die Chinesen besetzten Tibet in den frühen 1950er Jahren, der Dalai Lama verlie? Tibet 1959. Er lebt jetzt als Flüchtling in Dharamsala, Nordindien, wo er der Tibetischen Regierung im Exil vorsteht. Als gelehrte und charismatische Pers?nlichkeit, hat er aktiv die Unabh?ngigkeit seines Landes von China vertreten. Durch seine h?ufigen Reisen, Belehrungen und Bücher macht er den Buddhismus bekannt, engagiert sich für den Weltfrieden sowie für die Erforschung von Buddhismus und Wissenschaft. Als Anwalt einer ?universellen Verantwortung und eines guten Herzens?, erhielt er den Nobelpreis im Jahre 1989.?

Paul Williams, »Dalai Lama«, in
(Clarke, 2006, S. 137)

Moralische Legitimation
der Herrschaft Geistlicher

Für Sobisch ist die moralische Legitimation der Herrschaft Geistlicher ?außerordentlich zweifelhaft?. Er konstatiert:

?Es zeigte sich auch in Tibet, da? moralische Integrit?t nicht automatisch mit der Zugeh?rigkeit zu einer Gruppe von Menschen erlangt wird, sondern allein auf pers?nlichen Entscheidungen basiert. Vielleicht sind es ?hnliche überlegungen gewesen, die den derzeitigen, vierzehnten Dalai Lama dazu bewogen haben, mehrmals unmi?verst?ndlich zu erkl?ren, da? er bei einer Rückkehr in ein freies Tibet kein politische Amt mehr übernehmen werde. Dies ist, so meine ich, keine schlechte Nachricht. Denn dieser Dalai Lama hat bewiesen, da? man auch ohne ein international anerkanntes politisches Amt inne zu haben durch ein glaubhaft an ethischen Grunds?tzen ausgerichtetes beharrliches Wirken einen enormen Einfluss in der Welt ausüben kann.?

Jan-Ulrich Sobisch,
Lamakratie - Das Scheitern einer Regierungsform (PDF), S. 190,
Universität Hamburg